神話的知性と活動

日々移りゆく思考の跡を記録します。

はじめに

はじめまして。

 

日々の生活の中で、色々な考えが浮かんでは消えていきます。

読書をしているとき、電車に乗っているとき、歩いているとき、食事をしているとき。

そのいくつかはきらりと光るものを持っているように見えて、大切に育てていこうと思うものの、そのうち思考の波にさらわれてしまい、結局は心の海にまた溶けていってしまう。

またいくつかのものは、さしてそのときは気に留める必要もない平凡なものだと、そのときは思われるかもしれない。ただ、そうはいっても、そのような砂礫だって自らの思索の断片には変わりはないのだから、その時その瞬間の印象だけで捨象せずに残しておけば、自己の思想の土台を形成するのに使えるかもしれない。

考えたことを文字にして記録することは、すなわち、自分の内部にとどまっていたものを外部化することであり、主観から客観への転換と言えるかもしれない。それは自分というものを他の人に対して分かりやすく表現するだけでなく、自分自身に対しても、写真や映像のように、外部に投射された自己の思考を見せる機能を持っている。

これは、考えたことを書き留めることの大きな意義だと思います。

 

しかし一方で、文字情報にすることは、思考そのものの魅力を失わせることでもあります。

思考は生まれたそばから消えていきます。生々流転、常に生まれ変わるからこそ、輝いて見えるのかもしれない。花や動物のように。

思考が文字になるということは、思考を紙の上に磔にすることではないか。死んだ思考を額縁に飾ることではないか。押し花、剥製、標本。もちろんそれぞれに、価値や魅力はあります。しかしそれは、生と死の葛藤をその裏に抱えた、生命の見せる美しさとは全く異なるものである。生きているものの魅力は生きている間だけに存する。思考の魅力も同様ではないだろうか。

 

何より、思考は、文字にするにはあまりに繊細です。言葉は世界を分節するものです。分節された思考は、果たして自己の思考をどれほど映し出せるのだろうか。思考は流体的です。文章化した現時点での思考は、しかし、次の瞬間には別の姿に変わっているでしょう。常に同じ思考というのはあり得ません。ある時点での思考を切り取ったとしても、さてそれは、今の自分の思考だと誰が言えるのか。

 

得手不得手にかかわらず、思考をそのまま文章にすることは不可能である。そういう前提の下、それでもこれに挑戦していくことには、やはり価値があるし、取り組むべきだと思っている。

これを読めば、直ちに筆者の文章力の無さに気づかれてしまうだろうが、それでも構わない。そういったことも含めて、自分の思考をこの場で表現し、思索の足跡を記すことが、いつか財産となると信じてやっていきます。

 

書く対象は、特定のカテゴリーやジャンルに限りません。読書、ニュース、育児・教育etc.。興味を持ったもの、ふと考えたこと。制限することなく綴ることで、漠然と考えているだけでは見えないことが見えてくるかもしれない。もともと思考なんてごちゃごちゃしているのだから、ごちゃごちゃのまま書こうと思います(読む方には迷惑な話ですが。)。

 

よろしくお願いします。