神話的知性と活動

日々移りゆく思考の跡を記録します。

【読書】美貌の女帝(著:永井路子)

永井路子『美貌の女帝』(文春文庫、1988)

感想

元正天皇(680~748、在位715~724、第44代)の少女時代から、天皇太上天皇時代までを描いた作品。少女時代には人並みに恋愛を経験するも、祖父に天智と天武、祖母に持統を持つ彼女は、母の阿閉(後の元明)に宣告されたとおり、苦しみを伴う“栄光”という宿命へと導かれていく。

 

元正は、持統と元明の祖父、蘇我倉山田石川麻呂を出自に持つ。その蘇我倉山田石川麻呂は蘇我馬子を祖父に持ち、乙巳の変で討たれた蘇我蝦夷は伯(叔)父、蘇我入鹿はいとこに当たる。

乙巳の変でその蘇我蝦夷・入鹿を討ったのは、中大兄皇子天智天皇)と中臣(藤原)鎌足である。そして、天智の弟・天武が、天智-藤原体制に反発したのが壬申の乱であるが、本書でもこの対立軸が継続している。すなわち、蘇我氏を背景に持つ女系(持統、元明、元正)vs藤原氏藤原不比等とその子、孫)という構図のもと、ストーリーが展開される。

 

すべての登場人物は、自らの家系の宮中における繁栄を望み、闘いに臨んでいる。いわゆる「シンデレラストーリー」であれば、恵まれない家庭の主人公が由緒正しい家柄の悪役を逆転するというのがお決まりパターンである。一方、本書では、高貴な血筋である蘇我倉山田石川麻呂-天武の一族が、元は低い官位にあった藤原氏にその地位を追われていくという、逆のパターンで展開されていくわけだが、ここでは「血筋を覆す成功」ではなく、血筋の繁栄を絶やさないことこそすべてであるという思考を、全ての登場人物が共有している。

 

現代の我々から見れば不条理極まりなく、どちらかというと低い地位からスタートした藤原氏が(陰謀策謀に頼りつつも)成功を勝ち取っていくサクセスストーリーとして構成してもおかしくないのだが、思いのほか入り込んで読み進めることができる。

古代の彼らと現代の我々では、時代も価値観も違うから不思議である。古代の宮中が家と血筋重んじていたのに対し、現代では個人を重んじ、個人を縛るものをできる限り切り離そうという試みがなされる。古代と現代の間には、容易には乗り越えられない断絶があるに違いない。

 

と、書いてみたところで、はたと気づく。果たしてそうなのだろうか。「古代=血筋:現代=個人」という対比は、果たして正しいのだろうか。

 

いや、そうではあるまい。血筋や出自を重んじる文化は、いまだに根底に流れているではないか。

 

天皇は皇室の血を受け継ぐことが、現代でも皇室典範で規定されている。総理大臣にはそういった法はないが、自民党の首相であれば、三親等以内に総理大臣経験者がいる確率は、かなりの高確率だ。

もちろん、憲法上、家系などによる差別は全く許容される余地はないが、実質的には、その家柄が資産などを媒介としてその者のキャリアを規定するという状況は依然として存在する。つまり、間接的にではあるが、血筋が個人の将来を決定しているのである。

 

血筋により将来が決定されるというのは、決して現代の立憲民主主義により克服されたわけではない。個人を超越した存在というのは、今も脈々と我々の思考や文化の根底を流れている。だからこそ、本書も抵抗なく読むことができるのではないだろうか。かかる習俗は、現代の我々にとっても親和性の高いのである。

 

こうした、個を超えるものという観念が我々の意識下に今も在るという現実から目を逸らさず、社会の在り様を考えていくというのも、非常に重要なのではないか。本書を読み終えて、このように考えたところである。

 

関連書籍

1 水林彪天皇制史論 本質・起源・展開』(岩波書店、2006)

天皇制の歴史と変遷を辿り、本質を探る研究書。著者は旧都立大学の教授で、首都大学東京への改編に反対して大学を離れることになるのだが、ちょうどその最中に行った授業が原案であるため、非常な決意が伝わってくる。

さて、『美貌の女帝』に関連する部分として、「天智・藤原王朝観念」という項がある(同上、P.176~)。いくつか抜き出してみよう。

律令天皇制は天智を始祖とする王朝と観念されていた」(同上、P.178)

律令天皇制時代の天皇家天皇・藤原家として編成し、王権を天智・藤原王朝として観念せしむることになったと考えられる。」(同上、P.178)

藤原氏律令天皇王権の中枢に食い込み、最高権力を行使しうるまでになった根拠は、藤原氏の陰謀や天皇の強権に帰しうるものでは全くなく、ひとえに、王権の正当性(正統性)観念にほかならない。」(同上、P.179)

ここでは、藤原氏天皇と対になって統治するものとして、律令制に組み込まれていたという見解が示されている。論拠の一つとして、持統から聖武に至る中で、壬申の乱で権威が失墜した天智が最も権威ある天皇として再浮上することが挙げられている。この点、本小説ではこれを藤原氏が画策して実現したこととして描いており、本書とは想定する宮廷像が異なっており、興味深い。

2 牧英正・藤原明久編『日本法制史』(青林書院、1993年)

こちらは、私が大学生の時に教科書として購入したものである。ハードカバーでかなり分厚い。

関連する部分として、律令法の統治組織に関する項に、皇位の継承についての記述がある。

律令皇位継承については何らの規定を設けていない。」(同上、P.40)

「未成人の場合、傍系の兄弟継承が出現し、また政治的条件と結びついて中継相続の意味をもつ女帝の即位推古天皇以降、六人八代現れた。」(同上、P.40)

「但し、傍系の出自である聖武天皇が即位し光明子を皇后に立てて以来、その条件は変質し・・・、貴族主導の政治形態が出現する契機となった。」(同上、P.40)

律令皇位継承の規定が規定されていないというのはある意味当然で、神の系譜にある天皇が人為的制度になど束縛されようはずはない。

2点目については、『美貌の女帝』と違った見解である。女帝は「中継相続」とはっきり述べているが、本小説の女帝たちは、明らかに政権運営を主導している。巻末の解説で磯貝勝太郎氏が述べているとおり、著者はこの「中継相続」という一般的な見解を取っていないということなのだが、小説の中でこれによる違和感は生じていない。

3点目は、この小説が描いた時期より後の時期にも関わるため単純には照らせないが、藤原氏が闘争に勝利したことから想像される帰結と祖語はないだろう。

ネットカフェ宿泊者の支援根拠

1 導入(ニュース記事)

緊急事態宣言により、都内のネットカフェが休業対象になった。

東京都は、ネットカフェに寝泊まりをしていた人など、新型コロナウイルスの影響で居場所を失ったひとにホテルなど一時的な宿泊場所を提供するという。

 

東京都 ネットカフェ休業で一時宿泊先提供[2020/04/10 23:59]

https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000181544.html

テレビ朝日HP)

 

こうした人たちへの支援は、人道の見地から必要なものであるとは思うが、他方で、法律上の居住地というわけではないのであるから、どうして行政が支援する必要があるのだろうか、という疑問が生じた。

 

2 問題提起

疑問の観点は、この施策の法令上の根拠は何か。また、施策の経緯は何か、である。

 

3 調査

(1)まず、この施策はどういうものなのだろうか。

東京都福祉保健局の実施するこの事業は、「生活困窮者就労訓練事業」とのことである

 https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/seikatsu/seikatsukonnkyuu/seikatsusyuurou.htm

(東京都福祉保健局HP)  

事業の目的は、生活困窮者の就労に向けた支援である。

その中で、就労訓練などのプログラムと並び、安定的な生活の場を得るための支援というものが含まれている。これが、ネットカフェ宿泊者への支援に活用されているようである。

 

(2)本事業の根拠法令は、平成27年4月施行の生活困窮者自立支援法だ。

同法の目的は、次のとおりである。

(目的)

第一条 この法律は、生活困窮者自立相談支援事業の実施、生活困窮者住居確保給付金の支給その他の生活困窮者に対する自立の支援に関する措置を講ずる ことにより、生活困窮者の自立の促進を図ることを目的とする。

 

また、同法について、厚生労働省は次のように説明としている。

生活保護に至る前の段階の自立支援策の強化を図るため、生活困窮者に対し、自立相談支援事業の実施、住居確保給付金の支給その他の支援を行うための所要の措置を講ずる。

https://www.mhlw.go.jp/content/000362589.pdf

厚生労働省HP)

 

(3)さらに、同法の制度設計を担った社会保障審議会の報告書の冒頭では、背景として次のように述べている。 

 社会保障審議会 生活困窮者の生活支援の在り方に関する特別部会 報告書』

1.生活困窮をめぐる現状と課題

〇 生活困窮者の増大によって、この国の基盤が揺らいでいる。戦後日本の繁栄は、なによりも勤労世代の大多数が就労できて、家族の生活を豊かにすることを夢見て働き続けることでもたらされた。意欲をもって働くものがその手応えを感じ、生活を向上させる条件があったからこそ、この国は高い勤労モラルを実現し、高度な産業国家として世界経済を牽引することができた。

〇 日本がより成熟した経済社会に舵を切るにあたって、国民大多数が参加し力を発揮できる国と社会のかたちを継承していくことは、ますます重要になっている。ところが、1990年代の半ばから、安定した雇用が減し世帯構造も変化して、現役世代を含めて生活困窮者の増大が顕著になった。

〇(中略)生活保護の受給者は、これまで高齢者など就労が困難な人々が中心であったが、稼働年齢世代にある人々を含めて生 活保護を受給するようになっている。

〇 生活が困窮し立ちすくむ人々が増大するなかで、この国の活力が失われつ つある。失業、病気、家族の介護などをきっかけに生活困窮に陥る人が増え ている。生活基盤の化などの要因が重なって、自信を喪失し、将来への展望を失い、生活困窮に陥ることもまれではない。懸命に働いても困から脱却できず、生活保護の受給しか生計を維持する手段がないとすれば、働き続ける意欲は減退していく。

〇 自己有用感をもてず、将来の展望を完全に失った人々が増えると、現役世代を中心に能力、知識、技能の形成が進まなくなり、勤勉な労働力というこの国の最大の資源が失われていく。

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000057342.html

 

”戦後日本の繁栄””高度な産業国家として世界経済を牽引”というストーリーを持ち出していることや、その主な要因を勤労精神と家族という概念に集約させていることに、私は大きな違和感を感じてしまう。

要するに、法の背景は、安定雇用の減少や世帯構造の変化などにより、生活困窮者や生活保護受給者になってしまう現役世代が増加している、ということである。ただでさえ少子高齢化社会保障の基盤が揺らいでいるにもかかわらず、労働力としてカウントでき得る年齢の人たちが動員できない状況に陥っており、なおそれにとどまらず、ともすれば生活保護により社会保障費を増大させる一因にもなってしまっている現状がある。戦後日本の繁栄をもたらした”勤勉な労働力”を取り戻し、現在の経済システムを維持するためにも、生活困窮者の生活立て直しを支援し、就労へ導こうというのが本法の趣旨であると解される。

 

4 考察

冒頭で紹介した、緊急事態宣言に伴うネットカフェ難民の宿泊場所確保は、この生活困窮者自立支援法に基づく施策を活用したものである。それは一見、行政の要請に伴い居場所を失ってしまう人たちへの人道的な支援であるように思われる。事実、そうした側面も当然ながらあるのだろうが、その根拠を辿ってみると、また別の側面が見えてくる。すなわち、こうした支援はあくまで社会システムの維持が主目的としており、人権保障などの理念に基づく社会的弱者の保護という意味合いは薄い、ということである。

先に引用した報告書では、生活困窮者支援について”国”という視点で語られ、生活基盤を失った人たち個人の立場からの視点があまり感じられない。「勤勉な労働力というこの国の最大の資源が失われていく。」というあたりは特に、国民を単なる労働力として描いており、国民の上位に立つ”お上”意識が垣間見える。

 

たしかに、こうした背景を持っていたとしても、ネットカフェ難民への居場所提供は必要なことだし、やるべきことではある。かといって、手放しで称賛するものであるかについては疑問を持たざるを得ない。そもそも、生活困窮者を生み出し続ける社会構造を変えることなく、就労訓練を施し、”勤労な労働力”として再生させて経済システムに送り返す行為は、対症療法以外の何物でもない。生活困窮を個人の責に帰すことなく、構造的な問題の解決を目指すべきではないだろうか。

はじめに

はじめまして。

 

日々の生活の中で、色々な考えが浮かんでは消えていきます。

読書をしているとき、電車に乗っているとき、歩いているとき、食事をしているとき。

そのいくつかはきらりと光るものを持っているように見えて、大切に育てていこうと思うものの、そのうち思考の波にさらわれてしまい、結局は心の海にまた溶けていってしまう。

またいくつかのものは、さしてそのときは気に留める必要もない平凡なものだと、そのときは思われるかもしれない。ただ、そうはいっても、そのような砂礫だって自らの思索の断片には変わりはないのだから、その時その瞬間の印象だけで捨象せずに残しておけば、自己の思想の土台を形成するのに使えるかもしれない。

考えたことを文字にして記録することは、すなわち、自分の内部にとどまっていたものを外部化することであり、主観から客観への転換と言えるかもしれない。それは自分というものを他の人に対して分かりやすく表現するだけでなく、自分自身に対しても、写真や映像のように、外部に投射された自己の思考を見せる機能を持っている。

これは、考えたことを書き留めることの大きな意義だと思います。

 

しかし一方で、文字情報にすることは、思考そのものの魅力を失わせることでもあります。

思考は生まれたそばから消えていきます。生々流転、常に生まれ変わるからこそ、輝いて見えるのかもしれない。花や動物のように。

思考が文字になるということは、思考を紙の上に磔にすることではないか。死んだ思考を額縁に飾ることではないか。押し花、剥製、標本。もちろんそれぞれに、価値や魅力はあります。しかしそれは、生と死の葛藤をその裏に抱えた、生命の見せる美しさとは全く異なるものである。生きているものの魅力は生きている間だけに存する。思考の魅力も同様ではないだろうか。

 

何より、思考は、文字にするにはあまりに繊細です。言葉は世界を分節するものです。分節された思考は、果たして自己の思考をどれほど映し出せるのだろうか。思考は流体的です。文章化した現時点での思考は、しかし、次の瞬間には別の姿に変わっているでしょう。常に同じ思考というのはあり得ません。ある時点での思考を切り取ったとしても、さてそれは、今の自分の思考だと誰が言えるのか。

 

得手不得手にかかわらず、思考をそのまま文章にすることは不可能である。そういう前提の下、それでもこれに挑戦していくことには、やはり価値があるし、取り組むべきだと思っている。

これを読めば、直ちに筆者の文章力の無さに気づかれてしまうだろうが、それでも構わない。そういったことも含めて、自分の思考をこの場で表現し、思索の足跡を記すことが、いつか財産となると信じてやっていきます。

 

書く対象は、特定のカテゴリーやジャンルに限りません。読書、ニュース、育児・教育etc.。興味を持ったもの、ふと考えたこと。制限することなく綴ることで、漠然と考えているだけでは見えないことが見えてくるかもしれない。もともと思考なんてごちゃごちゃしているのだから、ごちゃごちゃのまま書こうと思います(読む方には迷惑な話ですが。)。

 

よろしくお願いします。